すむシェフのウエブログ


by sumuchef

I made it!

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今年の私の課題のひとつ。

『娘のトイレトレーニング(おむつはずし)』が、この週末を持ってほぼ完了しましたっ!

長かったなぁ。。。ここまで。と書いてみたものの、実際にかかったのは、なんと半日足らず。(その後、アクシデントはありますが)今朝は、三日目にして、大きいほう(食事中の方、ごめんなさい)もできるようになっちゃいました!
普通、おしっこができても、そこから(大) に至るまでの道のりが結構長かったりするらしいので、これは、もぉ、ほんとに、(今日は偶然だったかもしれないが)いやー、よかった。ほんとに、うれしいです。

ということで、今日は「トイレトレーニングから考えたこと」。

今月末には3歳になる娘。通ってるプリスクール(2歳児クラス)で、年齢的には上から2番目ですが、おむつちゃんは彼女だけ。一緒にプレイデートしていた4人娘の中には、まだ『真っ最中』の子がいるものの、トレーニングさえ始まってもいないのは彼女だけ。

実は今を遡ること3ヶ月前。まわりも、そろそろ。という雰囲気になっていたこともあり、一度トライしたことがありました。お友達でもある、先輩ママのアドバイスにより、ある朝いきなりパンツをはかせて(一般的にはトレーニングパンツにするとか、とりあえずパンツの上からおむつをして部屋を汚さない対策を講じるらしい)、「おしっこする前に教えてね。」と言い聞かせて。

もちろん失敗(アクシデント)は覚悟の上です。でも、その失敗体験を通じて、学ぶほうが、言葉を通じてよりも『わかる』んじゃないか。と期待して。そして失敗しても叱らない。と自分に言い聞かせて。

結果は惨敗。理由は簡単で、こちらが言わんとすることが伝わらなかった(理解できなかった)。わからないことは『できない』ということです。彼女としてみたら、何だかよくわからないけど、いつも通り生理的要求の声に応えた結果、足も服もびちょびちょになってしまった。半べそかきながら、立ち尽くす娘をトイレに連れていって、「ここに座ってするのよ。」と言ってみる。わかった? と、聞くと、一生懸命うんうん。と言ってくれる娘を見て、これできっと理解できたよね。と(今、思えば過度の期待をかけて、)凝りもせずに着替えさせたものの、同じことの繰り返し。

抑えていたつもりの感情も、繰り返されるアクシデントに(なんでわからないんだろう。。)と、つい咎め口調に。そして、その日の終わりには、ついに娘は、もうパンツをはくのも、トイレに行くのもが嫌だと言い出しました。おむつをしていたら、叱られない。ということだけが、このトレーニングから彼女が得たことだったとしたら、何とかわいそうなことをしちゃったんだろう。失敗してもいい。と覚悟を決めたはずなのに、何で叱っちゃったんだろう。自分の未熟さ、うまくハンドルできなかったことへの後悔を抱え、親にとっても、子にとっても散々な結果に終わりました。

トイレに行こうか?と、声をかけても、頑なに首を横にふる娘に、この先、どうやってもう一度、きっかけを作ってあげたらいいのかが解らず、途方にくれたのですが、これ以上無理強いさせるのはよくない気がして、とりあえずは、一旦トレーニングそのものを中断しよう。と決めたのです。

おむつライフに戻って生き生きとした娘を横目に見ながら、夫と話し合い、ママ友達や学校の先生に話を聞いてもらい、本を読んで、そして考えました。

何度も。

何日も。

そして、単純だけど、たいへんだけど、それが一番だ。と思える答えに行き着いたのです。

それは『待つ』こと。

トイレトレーニングに限ったことでなく、もう○歳になるのに。とか、他の子はできるのに。と思うことがナンセンスだとわかっているのに、「意味のない何かと」「他の誰かと」比べてしまう。「○歳までにここまでは」という育児書、「うちの子はもうxxできる」という他のお母さんの言葉に、振り回されまい。と思いながらも、ウチはまだだなぁ。。。とか思ってしまう。これは大なり小なり、親の気持ちとしては持つなというほうが難しい感情です。

でも。

「できる」ようになるその時まで『待つ』こと。親がしなければならないことは、ただ、そのタイミングが『いつ』なのかを的確に見極めることなんじゃなかろうか。と。

もちろん医学的な意味での身体、精神の成熟度というのはあるでしょうけれど、半年早くても、1年遅くても、そこに特別な意味なんてない。少なくてとも、親が我が子の成長を憂うような要素なんて、ひとつもない。ということです。

そんな訳で、この週末に再挑戦することも、用意周到に計画していたわけでないのだけれど、私の気持ちの中では、そろそろかな。と思い始めていたのは事実。それに加え、3連休だし、行くところもないし、やってみようかな。くらいの気分で、土曜日の朝、娘に、「今日はアンダーウエア(パンツのこと)はいてみる?」と聞いたところ、あっさりと「うん!」と言ってくれたので、それでは。ということで始めたのでした。

前回と同様に、「おしっこ行きたくなったら、トイレに行こうね。教えてね。」と言って開始。30分置きに、「おしっこは?」と聞いてみるものの、答えはひたすら「No」そのうち、パズルに夢中になって、あらら失敗。さて、今日はあと何回パンツ取り替えるかな。と、こっちも腰を据えた矢先、なんと、「pee-pee, potty (おしっこ。トイレ)」と言うじゃありませんか。

当の本人は、初めての経験に最初は目を丸くして、びっくり。「できたね。おしっこできたね!」と言うと、I made it! (できた!) と、ようやく、そしてとびきりの笑顔。

ぴょんぴょんと跳ねながら、I made it! と部屋中を駆け回る娘を見て、ああ、待ってよかった。と心から思えたのでした。

今回、トレーニングについての私のアプローチは、3ヶ月前と基本的には全く一緒です。でも前回は全くダメだったことが、今回はたった一度のアクシデントを踏まえて、できた。何が違うのか。考えてみたけれど、それは、やっぱり彼女自身の準備が出来ていた。それに尽きるような気がします。
具体的には、言葉への理解度が前よりずっと進歩していることがひとつ。二つ目は、頭で理解したことを、行動に移すという行為が以前より、容易にできるようになったこと。そして一度体得したこと(尿意を大脳で感知する→トイレに行く→用をたす)を、習慣として繰り返し行える。という学習機能を身につけたこと。あの時なぜ出来なかったのかが、なぜ今だったのか。がこうして考えるとよりはっきりとわかります。

「待つ」ことは、ある意味、「させる・しむける」ことよりも具体的な行為がない分、しんどかったけれど、言葉を代えて「見守る・時期を見極める」とすると、その何もアクションがない時間にも意味があるように思えます。見守ることは、愛情と忍耐が必要だし、見極めるためには、誰よりもちゃんと我が子の心と体の動きを感じ取る日々の暮らしが必要だから。

3年前、産まれたてのふにゃふにゃの、泣くことでしか要求を伝えられなかったあの小さな赤ん坊が、立って、食べて、歩いて、走って、言葉で相手を理解し、言葉で意思を伝え、頭と体を連動させて、ものすごい勢いで成長している様は、圧倒的で、感動的でさえあります。

哺乳類の中で、人間だけが、人に、人として育てられなければ、人間になれない。と知りました。(人間は狼に育てられると、狼のようになりますが、キリンや、猿は決して狼のようにはならないそうです)。トイレトレーニングの話から、話が飛躍してしまうけれど、体も心も健康な人間をこの世の送り出すための、幼児期から青年期にわたる、親と子の関わり方は、想像以上に深く、強くその後の生き方に決定的に影響を与えるものなのだと知り、昨今の事件を知るにつけ、人の親となった自分への責務の重さを感じているところです。

そうは言っても親も人の子。立派な人格者もいるけれど、たいていは、親も悩んだり、つまづいたり、間違ったり、時に子に教えられながら、もがきながら、頑張っているのが現状。それでも、きっと何かがブレなければ、子は親を越えて「人間として」育っていってくれるような気がします。
その何か。が、今回のトイレトレーニングで、身を持って学んだ「待つ」ことの中に答えがあるのかもしれない。とおぼろげながら、わかりかけてきた今日この頃。


そして。

『できた!』という達成感は、計り知れない喜びを彼女にもたらしてくれたと思います。それは他のことからは得ることのできない貴重な体験になるはずです。そして、親である私にとっても、とびきりのギフトです。
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by sumuchef | 2008-07-08 06:11